風呂キャンセル界隈も肯定の言葉『生きる言葉』俵万智

「稀代の歌人」という触れ込みに惹かれた。言葉を繰る人がどのように言葉について語るのか。筆者の周辺に巻き起こる暮らしや育児を通した、現代の言葉の観察日記、時事評論である。とはいえ「サラダ記念日」以外の作品や著作を知らず、読みながらプロフィールを知る。
序盤、息子さんの育児に関する部分では、途中何を読んでいるのか不思議な気分になった。息子さんへの惚気のような母の想いが溢れた文章に、読み始めた当初の目的を見失った。ただ通読して思うのは、サラダ記念日の「君」や息子さんなど、相手を思う気持ちの強さが著者の言葉を紡ぐエネルギー源なのだと感じた。相手を思うことは、相手を思う自分の心を掘ることであり、その結果としていくつかの言葉が生まれる。他者を表現する言葉のひとつとして秀逸だったのは「風呂キャンセル界隈」。俵万智は〇〇界隈という表現を、「一般的にはマイナス認定されていることを、現にあるものとして肯定する優しさが生んだ」と読む。ネットスラングもある種の包摂と捉えられるのだ。
読み進めていくうちに、言葉の使い方や叙述方法など少しテクニック的な知識を期待していた自分にも気付かされた(後半歌の詠み方で少しあった)。だがそれよりも、言葉に臨むときの姿勢というか、言葉それよりももっと手前にある日々の生活を慈しむ気持ちが肝要と知った。心が先に、言葉はその後だ。

世界を変革する文学部ってカッコいい『「感想文」から「文学批評」へ: 高校・大学から始める批評入門』小林真大

はじめに

ブログ等で批評文のようなものを書くにあたり参考書として読んだ。文学批評というものの型とその趨勢、批評の意義がまとめられた入門書。文学批評の歴史はまるで繰り返される抗争のような物語に感じられた。今後作品の批評を読み書きする際にどの観点なのか考えていきたい。また、最も興味深かったのは終章の批評の存在意義だ。文芸批評が社会の価値感を左右するという点は、下手をすると陰謀論的にもなり政治的にもなる活動だ。個人的には穏健なイメージのあった文学部の印象が変わって面白かったが、文芸批評を通してどんなイデオロギーに一票を投じているのかより意識的になる必要があると感じた。

語られる批評の型とは、作者と作品と読者において、どの角度からそれを評価するかによって6種類に分類される。以降概要をまとめる。

  1. 作家論(作者重視)
  2. ニュークリティシズム(メッセージ重視)
  3. 読者論(読者重視)
  4. 構造主義(コード重視)
  5. イデオロギー批評(コンテクスト重視)
  6. メディアスタディーズ(接触重視)

作家論

作家論は、作品を通して作家の意図を解析するアプローチ。近代の個人主義から始まったが、ロラン・バルトが「作者というのは幻想」と痛烈に批判。作品の意図を決めるのは作家ではなく、作品の言葉そのものであり、言葉の構造=構造主義へと発展。一方、作品は社会的なイデオロギーに支配されているというイデオロギー批評、さらに作品の言葉を解釈しているのは読者であるという読者論。作家論の批判「作者の死」から様々な批評の型が生まれた。

構造主義

主に詩を対象としたニュークリティシズムという科学的な分析批評が40-50年代に隆盛し、60年代から個々の作品分析ではなく、あらゆる作品の共通したシステム(構造)を分析する構造主義が、ソシュールの言語学・記号論などをきっかけにはじまった。ロラン・バルトが物語の構造分析を発表し、従来の印象批評といった神秘的な領域に科学的な批評を導入、文学批評に多大な影響を与えた。しかし、ソシュール以降の構造主義は、文学作品の社会や歴史的な背景を無視しているという問題があった。

イデオロギー批評

ロシアの文学者ミハイル・バフチンが、ソシュールの理論が言語の規則にばかり注目していることを批判。言語は社会的状況と密接に結びついており、作品の背後にある利害や関心、イデオロギーを考えるきわめて政治的なアプローチである「イデオロギー批評」が生まれる。特に、作家の個人的な才能ではなく、当時の経済的、社会的階級、支配的イデオロギーが作品に反映されたものとみるマルクス主義批評が生まれるが、ソ連型といわれる硬直した考え方により退行。フランスの哲学者ルイ・アルチュセールなどによりポスト・マルクス主義へ発展していく。また、労働者階級のみに注目せず様々な社会的グループに目を向け、男女の視点からフェミニズム批評、民族の視点からポストコロニアル批評が生まれる。しかし、「労働者」「女性」「民族」という観点以外にもイデオロギー批評は当てはまるが、あくまで作品は作者の個人的な体験であり、ある集団のアイディンティティーを一般化するには限界があるという指摘もある。

読者論

コンスタンツ大学のハンス・ローベルト・ヤウスは、マルクス主義の文学批評を、当時の社会状況を反映した部分のみの批評に過ぎず、過去の文学作品に心を揺さぶられる魅力を説くことができないと非難。作品自体やテクストに注意を向けていた従来の理論に対して、「読者」という存在に注目した読者論を主張。読者の「期待の地平」を破壊し、価値観を変化させるような作品を、ヤウスは文学的な価値が非常に高い作品とみなす。しかし、人は価値観の更新のみに比重をおいて読むわけではなく、いつも通りの安心感を求めて小説を読むこともある。「真の作者は読者である」と考えた結果、作品そのものを客観的に解釈しづらい批判を受けている。ただ、作品の意味を考えるとき、作品だけでなく、読者だけでなく、作品と読者のコミュニケーションを考慮に入れる気付きからメディア論が文学批評に導入されることになった。

メディア論

媒体や手段といった意味のメディア。テレビや新聞のマスメディア、SNSなどのソーシャルメディアなどがあるが、メディア論から文学批評の研究範囲が広がった。作品を読むにしても、本の装丁や文章のフォント、余白など出版メディアや編集者のまざまな意図、要素を読者は読み取る。そのためメディアは作家、作品、読者へ影響力を持つが、読者はいつも作者や出版メディアの思惑通りに作品を受け取っているわけではない。

文学批評の存在意義

文学作品の好き嫌いは個人的なセンスの領域であれば、客観的な価値基準などそもそも存在しないのかもしれない。アメリカの哲学者ジョセフ・マーゴリスは、私たちの価値判断を「個人的なセンス」と「支配的なセンス」の二つのレベルに分けた。個人の好みである個人的なセンスを超えて、社会的に承認を得ている支配的な価値判断、つまり社会の多数派が下す評価を支配的センスとした。またそれは、社会の変化やと共に変わる続けるという点で、どこまでも「相対的」である。文学批評家の役割は、批評を通じて作品の価値を人々に伝え、その作品を支配的なセンスのレベルに高めることで、人々の価値観に不可逆的な影響を及ぼす。世界で初めて設立されたイギリスの文学部は、人々に特定のイデオロギーを植え付けコントロールしようという意図があった。批評家は文学作品の価値判断を行うことで、社会の価値観まで変えることもある。

最後に本書終盤の作家・丸谷才一の言葉から一部抜粋(P.231)
『演奏家とは、楽曲が持っている美しい音色を、すぐれた演奏技巧で人々に伝えることを専門にしている人たちのことです。演奏家と同じように、批評家にも作品のすばらしさをより多くの人々に伝える役割がある。』

『機動戦士ガンダム』から『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』富野由悠季

はじめに

GQuuuuuuX(ジークアクス)の評判を聞き、一部見直しも含めて鑑賞した。動画配信サービスの恩恵もあり最初のガンダムいわゆるファーストから、ファースト映画3部作、Z、ZZ、逆襲のシャアまで。1979年から1988年まで約10年間の作品群だ。学生時分にはZZの序盤で挫折し、途中までしか履修できなかった。そんな必修単位を何十年か越しに取れた気分だ。だが、改めてガンダムシリーズがここまで脈々と続いている事実にまず驚く。ガンダムという単語は、一作品を示す言葉からひとつの様式、ジャンルに昇華している。

ミノフスキー粒子

もうひとつ今回改めて噛み締めたのはガンダムのSFとしての設定、ミノフスキー粒子だ。何を今更感もあるが、宇宙空間で発見されたミノフスキー粒子は通信電波を妨害する。結果、誘導ミサイルの類は正確に目標物を狙えず無効化された。そのため、宇宙空間を含む戦争は直接的な白兵戦が中心となった。ただ、宇宙服を着た人間同士ではなく、人間が操縦するパワードスーツ同士の戦いがメインであり、モビルスーツ同士が戦う世界観が成立する。これは、スポンサーであるおもちゃメーカーから売れる商品となるデザインを求められた結果でもあるらしい。
以下、おおまかに作品別の感想。

ファースト

ガンダムシステムとでも言えるような基本の形式を開発した。戦争や人間関係の喪失を通して葛藤し成長する少年〜青年像、少年や大人を含む群像劇、戦争や政治における(正義と悪ではない)正義と別の正義の戦い、戦争の虚しさ、宇宙に進出する人類の進化。複数のテーマが重奏するが、地球連邦からの独立を図るジオン公国の面々がキャラクターとして魅力的にすぎる。また、富野節ともいうべき台詞回しも冴え渡っており、おっさんネットミームの宝庫だ。映画3部作の微妙な変化も楽しい。

Zガンダム

ファーストに比べてより男女の関係性に焦点があたりより悲劇的だ。シャアやシロッコ、ヤザン、ジェリドなど、なんだか女性をダメにするホストクラブのよう。より大人向けの物語なのかと思えば、強化人間というモビルスーツの戦闘力は高いが情緒に問題があるキャラクターも登場し、心の置きどころに悩む。だが歴史の繰り返し感、ファーストとの自己相似的な構成は感慨深い。

ZZガンダム

Zの反動が強すぎたせいなのか、全体的に明るいもとい軽い、そしてなんだか子供同士のやりとりがうるさい。反戦でも男女でもなく、妹を思う兄の話のようで、毎回読み切りのような散逸的なテーマに感じられ腰が座らない。ハマーンが出てくると少し引き締まる。オープニング映像にしか出てこないシャアというのも肩透かしである。

逆襲のシャア

富野のフラストレーション?が爆発したような快作否怪作である。ファーストやZを経たアムロとシャアの相剋の末だが、ララァに母を見たというシャアは結局気持ち悪いなと思いました。

さて、これ以降のガンダムシリーズ鑑賞を継続するか、悩ましいところではあるが、ジークアクスへの道のりはなかなか遠い。


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『BUTTER』柚木麻子

海外で翻訳版が評価され、改めて日本でも評判となった本作を電子書籍で読んだ。作者が着想を得たといわれる実際の事件「首都圏連続不審死事件」は2007〜2009年に起き、報道や裁判が世間を騒がせたのは2010年代前半頃。本小説の初版は2017年、翻訳版の出版は2024年であり、意外と時間が経っていたのだと読後に知った。また、元の事件について記憶があまりなかったため、どこまでが事実に基づいているのかはわからず、むしろ前提知識や先入観なしで読むことができた(と思う)。

週刊誌記者の町田里佳は、都内の連続不審死事件の容疑者として収監中の梶井真奈子から取材の了承を得る。事件の聴取には誰が相手でも応じなかった梶井だが、料理や美食の話題を切り口にすることで面会にこぎつけた。料理好きで里佳の親友でもある伶子の助言がきっかけだった。東京拘置所での面会を通じて、里佳は梶井に勧められた食材やレストランのメニューをひとつずつ味わっていく。梶井の食べてきたものを追体験しながら、事件に関与した彼女の思考を探ろうとするのだ。しかし、食欲に正直な梶井の姿勢は、女性の社会的な抑圧から解き放たれているようで、里佳は少しずつ彼女に惹かれはじめる。やがて食にとどまらず私生活まで翻弄され、伶子や関係者を巻き込みながら物語は展開していく。

取材が進むにつれ、里佳・梶井・伶子の三人の生い立ちにも触れられ、それぞれが抱える事情から女性のさまざまな抑圧が浮かび上がる。事件における悪女像、食に起因する体型や料理などのケア、結婚や家族の在り方など多岐にわたる。そうしたフェミニズムの課題を具体例として提示しつつ、三人の間では惹かれあい、憎みあう感情が揺れ動く。その心の変化が静かにでも確実に、ふとした言葉やほんの小さな揺らぎとして描かれる点が印象的である。

さらに、味だけでなく匂いや環境音など五感を駆使した臨場感ある食レポや調理描写は、読んでいるとお腹が減ってくる。実在の商品や食材、飲食店も登場するため、同じ料理を通じて小説を追体験できる楽しみもある。個人的にはまずエシレのバターしょうゆご飯を試してみたいと思った。梶井が勧める多くの料理にはたっぷりのバターが欠かせない。タイトルでもあるそのバターは、本来なら控えるべき存在であり、抑圧された女性の食欲=欲望を象徴する。一方で、その抑圧をはねのけ、明日の活力となる凝縮された力の源でもある。


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『チ。―地球の運動について―』魚豊

※記事の内容から、生成AIで作成した画像

15世紀前期のP王国というヨーロッパ風の国。架空の宗教C教が権威を持ち、宇宙の中心が地球である天動説を公認の学説とする。神の力を示す天動説に対して地動説は異端の教え。秩序を乱すものは処罰の対象であり、異端者はときに極刑にもなる。天文学の研究に高いリスクが伴うという舞台設定だが、史実では地動説を語るだけで火刑までにはならなかったようだ(地動説を含む異端を唱えて火刑になった人はいる)。だが、この極端な設定により、新たな知識を信じることに命をかける、そんな狂気が描きやすくなる。

地動説を信じる登場人物が放った「不正解は無意味を意味しない」という言葉が印象に残る。少し回りくどいが、不正解にも意味がある、と。それは、ある人の行動が正解か不正解かよりも、問うことそのものに意味がある、と捉えられる。『私の行動は誤りかもしれないが、この問いは新たな知性に貢献している』という確信がそこにある。積み重なってきた多くの問いの先に新たな知性が生まれる。イマココにあるあらゆる考えは先人の問いの積み上げであり、命の集積の結果ともいえる。そんな「思いのバトンリレー」が本作で鮮やかに描かれる。バトンは、夜更けから深夜、夜明け、朝焼けとまるで地球の運動のように巡る。

そのような知性が伝播するための装置として、文字や本という媒体も本作の大事なテーマだ。手書きのノートや本に加え、紙以外の媒体や活版印刷も登場し、地動説の研究が人から人へ伝わる。本を通して私たちは千年前の作者とも出会い、語り合い、友人になることもできる。当たり前のように思えるが、よく考えれば驚くべきことだ。そして、ある思想が社会に浸透し変化をもたらすには幾世代もの時間がかかる一方で、人の寿命はあまりにも短い。その隔たりをつなぎとめてくれるのが、まさに書物であり文字なのだ。文字を通して人は永遠の存在にもなれる。

地動説の確立を通して、あるアイデアや考えがどのように人々に伝播していったのか、それは例えばこんな物語だったかもしれない。本作はわずかなフィクションを交えつつ、人の思いの力強さを示す。「地球(を守る)」という言葉に「かんどう」というルビを振るシーンもあった。タイトルの「地球の運動」とは、文字通りの天体運動と同時に、この世の美しさに感動し世の中を突き動かす人々のことだ。


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『ダンジョン飯』九井諒子

Kindle Paperwhiteを購入したところ、Kindle Unlimitedが無料だったため、レコメンドされた『ダンジョン飯』1巻を読み、見事にはまって全14巻を読了した。アニメ化もされているようだが未見なので、ここでは漫画について。


最初はタイトルの通り、迷宮を冒険するパーティが食うに困って魔物を料理して食べる物語。ドラクエのようなファンタジーの世界観で、戦士やエルフの魔法使い、ドワーフらのパーティが登場する。通常の飲食事情は現実と変わらないようだが、魔物を食べるというのは一種のゲテモノ食い的な設定らしい。迷宮の階層を深く進むごとに現れる様々な魔物を、いろいろな調理法でおいしく食していく。この魔物たちの生物学的な背景と、それゆえにどう調理すると美味しくなるかという設計が緻密で、架空の食材なのに説得力があり実に旨そうだ。


また蘇生の魔法が存在するため、ときに死が軽く扱われる。この死の扱い方が「食は生の特権」というテーマとうまく絡んでいる。死んでも遺体が残っていれば蘇生できるが、何かに食べられてしまい誰かの栄養になってしまうと、もう蘇生はできない。物語は徐々に、悪食グルメリポート的な雰囲気から、食物連鎖や転生、さらには「食は生の根源的な欲求」というテーマへと昇華していく。シリアスな場面も出てくるが、各キャラクターの性格も含めどこか抜けた明るさがあり、ユーモアが絶えない。その雰囲気が物語に重さと軽さバランスを与えている。また、終盤に時折挟まれる見開きスケールの画は、まるで宗教画のような神々しさがあり、作者の画力や生物への興味・好奇心も感じられた。

総じて、ファンタジーからグルメ蘊蓄、ギャグ、シリアス、人種間の諍い、欲望まで、食を中心に様々な要素が盛り込まれている。それはまるで、あらゆる味蕾を刺激するフルコース料理のようで、大変おいしゅうございました。

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『実力も運のうち 能力主義は正義か?』マイケル・サンデル

原題と邦題が違う例は映画でも本でもよくある。サンデルといえば『これからの正義の話をしよう』がベストセラーになったこともあり、邦題にあえて「正義」という言葉を足したのか。原題は The Tyranny of Merit: What’s Become of the Common Good 。直訳すると「功績主義の圧制――共通善はどうなってしまったのか」といった感じだ。Merit=功績。Meritocracy=功績主義。ただ、日本語では「能力主義」とも言われる。本書の内容からすれば「功績主義」が一番近いが、日本での文脈を考えると「能力主義」としたほうが通じやすい部分もある。どちらにせよ邦題はだいぶ意訳になっている。

出版は2020年9月。トランプ政権(2017〜2021)の末期で、トランプとバイデンの大統領選挙の直前だ。サンデルはポピュリズムの原因としてメリトクラシーを挙げる。もちろんブレグジットなど欧州の事例にも触れるが、中心はあくまでアメリカ政治、とりわけオバマ政権下の民主党の政策を批判している。
功績主義は「努力すれば成功できる。できないのは自己責任」という考えを押し出す。そのため大学学位の取得が強調される。結果として学位を得たエリートは「自分の努力の成果だ」と思い上がり、学位を持たない労働者は尊厳を失う。グローバル化のしわ寄せやアファーマティブアクションも絡み、白人中産階級が「自分たちは軽んじられている」と感じるようになる。この相互の反発が分断を深め、トランプ政権を生んだ。教育制度のあり方も批判されている。本来なら社会の流動性を高めるはずの大学が、むしろ階層の固定化に加担しているというのだ。SATのような試験は準備にお金をかけられるかどうかで結果が左右され、家庭の経済状況が学力評価に直結する。努力以前に「運」の要素が大きい。
ではどうすればいいか。サンデルは、一つの案として「入試をくじ引きにする」という大胆な仕組みを提示する。もちろん一定の学力ラインは必要だが、その上で選抜をランダムにすれば経済格差の影響を和らげられる。他にもコミュニティカレッジや職業訓練校の強化など、労働の尊厳を回復する方策が語られる。
トランプ政権に対しては批判的なメディア報道が多かった。建設的な批判というより、時に嘲笑に近いトーンもあった。ただ「なぜ彼が当選したのか」をきちんと理解する機会は少なかったように思う。本書を読むと、例えば政権がハーバード大学への助成金を止めようとした背景も見えてくる。メディアの評価もまた、学位を持つエリート層のフィルターを通したものだった可能性は否定できない。

『私たちが光と想うすべて』パヤル・カパーリヤー

薄暗い夜の街、路上販売や駅の雑踏、インド・ムンバイで暮らす人々のナレーションから始まる。電車で通勤するプラバはムンバイの病院に勤める看護師。仕事でドイツに行った夫から1年以上連絡がない。同居中のアヌは職場の後輩。アヌはヒンドゥー教徒だが、ムスリムの彼氏がいて職場で噂になっている。病院の食堂で働くパルヴァティは夫を亡くして久しい。しかし、長年住む家の居住証明書類に夫の名義しか無く、高層マンション建設のため立ち退きを迫られている。
プラバ、アヌ、パルヴァティと、3人の女性はそのままならなさに戸惑い、虚空や彼方を見つめる。何かがおかしい。なぜドイツに居る夫は電話すらしてこないのか?なぜ異教徒との恋愛はダメで親はお見合いを勧めるのか?なぜ名義が亡き夫だからといって住居から妻が追い出されるのか?大声をあげず、静かな沈黙で訴える。雨の多いムンバイの夜、部屋の窓からプラバが見つめる先には高層マンションやスラムの家々の街明かり。こちらの部屋にはない家族の生活が、遠く彼方の光にはあるのか。こちらが暗いほど、遠くの理想は輝いて見える。
パルヴァティはムンバイの家を引き払い、海が近い郊外の実家に引越す。プラバ、アヌも共に荷物を運び、日差しが溢れるバスで移動する。都会の夜のネオンと、郊外の昼の自然光が対照的だ。この郊外で、プラバはまるで口寄せのような夢か現実かわからない奇妙な体験を通して夫からの決別を果たす。目覚めたようなプラバは柔らかな微笑みで「彼を呼んで」とアヌに伝える。おとぎ話のお菓子の家のようなカラフルな電飾のほったて小屋で4人が出会う。その出会いと優しい会話を包むように星空が浮かぶ。それぞれの抑圧を脱したというよりも手を取り合ってそれを受け止めている。彼女ら自身がこれからを照らすひとつの希望の光となったのだ。後ろで踊る若い店員は、それを祝福する天使のようだ。

『ババヤガの夜』王谷晶

(ネタバレを含みますのでお気をつけください。)
英国ダガー賞を日本人で初受賞というニュースをきっかけに読んだ。作者の王谷晶さんのお名前も知らず、名前の読み方や性別も知らなかった。とはいえ、名前の読み方や性別がわかったからなんだというのか。

書評とネタバレについて、そもそもここに文章を書き連ねる理由まであれこれ考えさせられた。書評は作品のあらすじを書くに留めるべきか。この書評の読み手に作品を薦めるためなら、興味をそそる導入であるべきだ。だが、自分が読んで感じたことを言語化するための自分向けWebログの性格が強いと、ネタバレも含めて書き記したい。というか、書かざるを得ない。とはいえ、ミステリー小説の書評でいきなり犯人を示す愚はさすがに避けたい。そんな葛藤があるんだなと再認識した。ここまでの内容だけでも「ネタバレに気をつけるべき仕掛けがある」というネタバレを含んでいる。その伏線や読書体験が鮮やかだっただけに、これからの読者の体験を損なうことだけは気をつけたい。改めて書評の目的というか姿勢を整理すると、自分が読んだもの、感じたことをネタバレを気にせず書く。私が感じたことを既読者の方々と共有することで、その読者に共感や違和感という読後体験の奥行きが生まれれば幸いだ。

多勢のヤクザにも怯まないほど喧嘩の強い女・新道依子が、暴力団・内樹會の会長の一人娘・内樹尚子の護衛にスカウトされる。大学に通う尚子は、ひとり親の会長から生活全般を制限・監視され、学校以外の時間、服装に至るまで自由がない。尚子の母親は会長の部下だった「長ドスのマサ」と不倫の末に逃走中。依子と尚子のエピソードと並行して、芳子と正という二人暮らしの生活も語られる。共に白髪の二人は偶然、自動車事故の現場に遭遇、負傷者を救出したのち野次馬のカメラを避けるように逃げる。世間から距離を置く様子に、二人のただならぬ事情がうかがえる。芳子と正は、日本のどこかに逃走した尚子の母親とマサと思われる。依子と尚子は次第にお互いの状況や出生を理解し打ち解けていくが、尚子の母とマサの居場所が見つかったと一報が入り、会長は急ぎ刺客を送る。逃げる支度をする芳子と正の家に追手が迫る。芳子は必死に刺客と争うが、あれ?めっぽう強い。さすが会長の妻だから強いのかな?と思ったら、明かされる事実。芳子は40年後の新藤依子の姿だった!つまり、依子と尚子、芳子と正の2つのエピソードは場所=空間が異なった別人物ではなく、時間が異なった同一人物だった。内樹會から逃げた依子と尚子が、40年を経て芳子と正になっていった。尚子の読みは「なおこ」ではなく「しょうこ」だった。まるで同時進行のように語られていた芳子と正は、長ドスの「マサ」ではなく「しょう」だった。この名前の読み方を使った叙述トリックに気持ちよく足をすくわれた。

感心しながらも、さらに興味を覚えるのは英国ダガー賞だ。漢字の読み方を含むトリックに、どのように英語で応えたのか。また、オーディブルのような朗読メディアの場合、このレトリックは成立するのか?アクション映画のような本作、映像化も面白そうだが果たして可能か?などなど、叙述トリックから派生する様々な問題や疑問が頭をよぎるのも楽しい。

ババヤガとはスラブ民話での魔女のことらしい。明確には語られないが、暴力に異様に惹かれる依子という女が、鬼婆のような人外へ覚醒する物語とも解釈できる(依子というキャラクターは暴力シーンにこだわる作者の投影とも読める)。さらに、男女、夫婦、親子、兄弟姉妹といった名前のある関係性とは異なり、依子と尚子の女二人の40年の生活・関係に付ける名前はなく、もはや性別も名前すらも曖昧だ。愛ではないが深い絆を持ち、お互いを最も大事に考えている。ただ、「誰かの何かとして」はもう生きられない二人は、今の世間では生きづらい。そのカテゴリ外に居ることが、異端の者という意味での魔女・鬼婆であり、二人でそうなるために生まれてきたのだとも悟る。夜にこそババヤガは輝くのか、明けるべき夜もあるのだろう。

『サピエンス全史』ユヴァル・ノア・ハラリ

本書は2011年にイスラエルで初版が刊行され、2012年に英訳版、2016年に日本語訳、そして2023年に文庫版として出版された。私がこの文庫版で本書を手に取ったのは2025年である。原題は Sapiens: A Brief History of Humankind。直訳すれば「サピエンス:人類の簡潔な歴史」といったところか。そのタイトルが示す通り、本書ではホモ・サピエンスの誕生、すなわち石器時代から近現代に至るまでの、人類の歩みと各種の「革命」を分析している。構成は大きく4つのフェーズ──認知革命、農業革命、人類の統一、科学革命──に分かれる。内容は多岐にわたるが、特に興味を引かれた部分を抜粋して紹介したい。

序盤の「認知革命」では、ホモ・サピエンスとその他の類人猿とを分ける大きな違いの一つとして「想像力」を挙げている。たとえば自動車メーカーのプジョーを例にとり、「法人」という想像上の概念を取り上げる。自動車そのもの、技術、社員、社屋のいずれも「プジョー」そのものではない。しかし、「プジョー」という語によって、人々は共通のイメージを思い浮かべることができる。このように、ホモ・サピエンスは共通の物語や想像を共有することで、他の動物では成し得ない規模での集団行動や意識の統一が可能となり、結果として繁栄した。こうした想像の産物には、神話、宗教、国家、貨幣、信用、家族、共同体など、現代社会の制度や価値観の基盤となるものが含まれる。

一方で、想像力は人類に秩序と繁栄をもたらしただけでなく、人種や性別によるヒエラルキーといった差別や格差も生み出した。人類の想像力が常に善や真理に導くとは限らず、時にそれは偏見や抑圧の根源ともなりうる。

続く「農業革命」では、集団行動が可能となったサピエンスが、移動を伴う狩猟採集生活から、定住を前提とした農耕生活へと移行していく過程が描かれる。安定した農耕は、より多くの人々を養うことを可能にしたが、ハラリはここに「穀類の罠」「贅沢な生活の罠」があったと指摘する。小麦などの穀物は、人類の農耕化によって爆発的に繁栄した。言い換えれば、人類は穀物に利用され、耕し、水を与え、繁殖させた。これはまるで映画『マトリックス』のように、人類が無意識のうちに支配されていたディストピア的な構図にも映る。結果として人口は増えたが、生活の質や幸福という観点では、狩猟採集時代よりも向上したとは一概には言えない。

「人類の統一」の章では、貨幣の発明から市場経済の発展、帝国と植民地の拡大・統合、そして普遍宗教の登場によって、世界が統一されていく流れが描かれる。ここでは詳細を割愛するが、ハラリは宗教、貨幣、帝国といった「虚構」の共有が、地球規模の人類統合に果たした役割を論じている。

最後に「科学革命」。これは、宗教的な全能感から脱し、「我々にはまだ知らないことがある」という認識と、それを観察と実験によって解明しようとする姿勢がもたらした革命である。この科学的思考は、帝国主義や資本主義と結びついて、現代の世界秩序の礎となっていく。個人の欲望や強欲が、市場経済の中で利己的であると同時に、結果的に利他的にも働くことがある。市場が発展し、たとえばミシシッピ・バブルを契機にフランス王政が破綻、フランス革命へと至った。政治的自由と平等が獲得される一方で、イギリスでは産業革命による技術革新が進行し、現代社会の基盤が築かれていく。だがその反面、産業革命は家族や地域コミュニティの崩壊といった負の側面ももたらした。

また、科学の進展は、遺伝子操作による生命の改変や、機械による身体機能の強化といった「バイオニック生命体」の可能性にも言及している。これは本書の中心テーマからは少し離れるが、Appleのスティーブ・ジョブズが語ったように、人は自転車のような道具を使うことで、効率を飛躍的に高められる。コンピューターやスマートフォンといった「知的な自転車」によって、人類の認知能力はすでに拡張されており、我々はすでに「半ばバイオニックな存在」と言えるかもしれない。スマートフォンがウェアラブル化し、さらに脳と直結するような技術が発達すれば、『攻殻機動隊』のような世界も現実味を帯びてくるだろう。

人類の歴史を俯瞰的に捉えるこの知的冒険は、そのスケールの大きさゆえに、読者を圧倒する。しかし、各章の論理的な展開を丁寧に追っていくことで、人類の全体像を一望したかのような錯覚すら覚える。それほどまでに本書は魅力的であると同時に、ある種の恐ろしさもはらんでいる。