『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』黒川智之

物語は、ある日突如として異星から巨大な宇宙船が地球の空に現れるところから始まる。だが、その宇宙船との接触や交信は一切ない。ただそこに「あるだけ」の存在は、最初こそ異様だったものの、次第に人々に受け入れられ、やがては日常の一部となる。この“非日常が日常となった世界”で生きる少年少女たちの生活は、その平凡さゆえにかえって普遍性を帯び、観る者の共感を誘う。

(以下、ネタバレを含みます)

序盤、少女たちが語る作中漫画「イソベやん」が『ドラえもん』のオマージュであることに思わず心を掴まれる。秘密道具を「便利道具」と呼び変える点など、ドラえもんファンとしては微笑ましく感じる。だが、タケコプターやかくれマント、そして「もしもボックス」のような装置が登場するにつれ、物語は藤子・F・不二雄の「SF(すこし・ふしぎ)」の範疇を越え、だいぶ不思議で不穏な展開へと進んでいく。

門出(かどで)と凰蘭(おうらん)という印象的な名前を持つ二人の少女は、過酷な運命を背負って生きる。凰蘭は親友の門出を救いたい一心で、「もしもボックス」のような機械を使い、世界線を飛び越え、運命の修正を試みる。その結果、門出の運命は変わるものの、代償として異星人が地球を襲撃するという新たな惨劇が発生する。少女たちの強い友情が、地球全体を危機に晒す。言い換えれば、「たとえ世界中を敵に回しても、あなたの味方でいてくれる存在」が描かれているのだ。そうした無条件の肯定と承認が、誰にとっても当たり前に存在するべきだという願いが、物語の根底にあるように感じた。

このように複雑な構造のストーリーを、時系列を巧みに行き来しながらも理解しやすくまとめあげている点は見事である。また、鬼太郎やのび太、ガンダム、AKIRA、エヴァンゲリオンなど、さまざまな作品へのオマージュやパロディが随所に散りばめられており、自分が子供の頃から触れてきたサブカルチャー史を振り返るような、郷愁にも似た感情が湧いた。

ただし、目玉のおやじのような異星人たちが地球に移民してくる際の、大量虐殺を思わせる描写には強い違和感を覚えた。彼らは人間の子どもほどの小さな体格であり、視覚的には「子どもたちのジェノサイド」のようにも映ってしまう。もちろん、残酷な表現そのものが悪いわけではない。しかし、物語の中で暴力や残虐性に明確な意味や必然性が欠けていると、それらの描写は単なるショック効果を狙った“見世物”に堕してしまう危険がある。その結果、作品全体の印象を損ねてしまい、非常にもったいなく感じられた。