本書は2011年にイスラエルで初版が刊行され、2012年に英訳版、2016年に日本語訳、そして2023年に文庫版として出版された。私がこの文庫版で本書を手に取ったのは2025年である。原題は Sapiens: A Brief History of Humankind。直訳すれば「サピエンス:人類の簡潔な歴史」といったところか。そのタイトルが示す通り、本書ではホモ・サピエンスの誕生、すなわち石器時代から近現代に至るまでの、人類の歩みと各種の「革命」を分析している。構成は大きく4つのフェーズ──認知革命、農業革命、人類の統一、科学革命──に分かれる。内容は多岐にわたるが、特に興味を引かれた部分を抜粋して紹介したい。
序盤の「認知革命」では、ホモ・サピエンスとその他の類人猿とを分ける大きな違いの一つとして「想像力」を挙げている。たとえば自動車メーカーのプジョーを例にとり、「法人」という想像上の概念を取り上げる。自動車そのもの、技術、社員、社屋のいずれも「プジョー」そのものではない。しかし、「プジョー」という語によって、人々は共通のイメージを思い浮かべることができる。このように、ホモ・サピエンスは共通の物語や想像を共有することで、他の動物では成し得ない規模での集団行動や意識の統一が可能となり、結果として繁栄した。こうした想像の産物には、神話、宗教、国家、貨幣、信用、家族、共同体など、現代社会の制度や価値観の基盤となるものが含まれる。
一方で、想像力は人類に秩序と繁栄をもたらしただけでなく、人種や性別によるヒエラルキーといった差別や格差も生み出した。人類の想像力が常に善や真理に導くとは限らず、時にそれは偏見や抑圧の根源ともなりうる。
続く「農業革命」では、集団行動が可能となったサピエンスが、移動を伴う狩猟採集生活から、定住を前提とした農耕生活へと移行していく過程が描かれる。安定した農耕は、より多くの人々を養うことを可能にしたが、ハラリはここに「穀類の罠」「贅沢な生活の罠」があったと指摘する。小麦などの穀物は、人類の農耕化によって爆発的に繁栄した。言い換えれば、人類は穀物に利用され、耕し、水を与え、繁殖させた。これはまるで映画『マトリックス』のように、人類が無意識のうちに支配されていたディストピア的な構図にも映る。結果として人口は増えたが、生活の質や幸福という観点では、狩猟採集時代よりも向上したとは一概には言えない。
「人類の統一」の章では、貨幣の発明から市場経済の発展、帝国と植民地の拡大・統合、そして普遍宗教の登場によって、世界が統一されていく流れが描かれる。ここでは詳細を割愛するが、ハラリは宗教、貨幣、帝国といった「虚構」の共有が、地球規模の人類統合に果たした役割を論じている。
最後に「科学革命」。これは、宗教的な全能感から脱し、「我々にはまだ知らないことがある」という認識と、それを観察と実験によって解明しようとする姿勢がもたらした革命である。この科学的思考は、帝国主義や資本主義と結びついて、現代の世界秩序の礎となっていく。個人の欲望や強欲が、市場経済の中で利己的であると同時に、結果的に利他的にも働くことがある。市場が発展し、たとえばミシシッピ・バブルを契機にフランス王政が破綻、フランス革命へと至った。政治的自由と平等が獲得される一方で、イギリスでは産業革命による技術革新が進行し、現代社会の基盤が築かれていく。だがその反面、産業革命は家族や地域コミュニティの崩壊といった負の側面ももたらした。
また、科学の進展は、遺伝子操作による生命の改変や、機械による身体機能の強化といった「バイオニック生命体」の可能性にも言及している。これは本書の中心テーマからは少し離れるが、Appleのスティーブ・ジョブズが語ったように、人は自転車のような道具を使うことで、効率を飛躍的に高められる。コンピューターやスマートフォンといった「知的な自転車」によって、人類の認知能力はすでに拡張されており、我々はすでに「半ばバイオニックな存在」と言えるかもしれない。スマートフォンがウェアラブル化し、さらに脳と直結するような技術が発達すれば、『攻殻機動隊』のような世界も現実味を帯びてくるだろう。
人類の歴史を俯瞰的に捉えるこの知的冒険は、そのスケールの大きさゆえに、読者を圧倒する。しかし、各章の論理的な展開を丁寧に追っていくことで、人類の全体像を一望したかのような錯覚すら覚える。それほどまでに本書は魅力的であると同時に、ある種の恐ろしさもはらんでいる。